こんにちは。フリーランス臨床検査技師の服部です。
現在ははっとラボ(屋号)として超音波検査と教育を主軸に活動しています。
連載第4回目として【転職・引っ越し後のライフスタイルの変化】について語っていこうと思います。
読了目安時間:11分程度(1分300文字)
転職後の仕事の変化
第3回の時にも少し触れましたが、転職後の病院では主に超音波検査の担当として配属されました。これは紹介してくださった廣岡先生のおかげでもあり、当時の院長も超音波検査ができる人材を求めていたこともあり、ようやく学生時代に思い描いていた「超音波検査で活躍する」というキャリアを歩むことができるのだと思いました。
メインは超音波検査で、生理検査業務全般を行っておりましたが前職よりも多く超音波検査を担当できることが嬉しかったのを覚えています。
当時は心エコー図検査は未経験だったのですが、ちょうど医師から臨床検査技師にタスクシフトしたいという病院の方針もあって、私も医師に習いながら心エコー図検査を習得する機会に恵まれました。
このおかげでフリーランスとなった時に、乳腺エコー以外でメジャーな領域は全般的に対応できるようになったので、本当に良い経験だったと思います。
待機業務の誤算
前職では日当直業務でしたが、転職後は当直はなく、土日祝の日直と夜間待機業務でした。
誤算だったのは待機業務でも細菌検査のグラム染色を「できる人は検査して報告する」という体制だったことです。今までにも触れたように私は1型2色覚であり、赤や緑をみることが不得手です。グラム染色の紫やピンクを判定することは先天的な特性に依って困難を極めるものです。
そこで私は当時の微生物検査室の長でもある技師長に「先天性色覚異常のため私はグラム染色ができない、できる人の括りから外してほしい」と相談しました。
技師長の返答は「やってみないとわからないから、やってください」ということでした。
私は経験上、絶対に間違えると判断しているものの技師長にうまく伝えることができなかったのかもしれません。とはいえ、上司にやれと言われて検査して間違った結果を報告するのでは医師も患者も困ってしまいます。私は考えた末に微生物検査を担当していた他の技師にお願いして私がグラム染色したものは即時報告せずに次の朝にダブルチェックしてもらってから報告することにさせてもらいました。(その意味では技師長の指示に逆らったことになりますが、全員が即時報告していない体制ですので大きな支障はないと判断しました。待機時の当直医にも事情を説明して理解してもらっていました。)
すると、やはりグラム陽性と陰性を真逆に判定する事例が発生し、そのデータをもって技師長に報告し、私もグラム染色を免除してもらう待機者になりました。ここでも色覚がこんな形で関係してくるのかと感じる出来事でした。
また、自分の特性を伝えて理解を得るということの難しさを痛感する事例でした。
今回の転職時には恩師の紹介もあったため、事前に色覚のことを院長や事務局長、技師長にも伝えており、面接でも話していたのですが、やはり目に見える特性の違いではないため、あまり重要視されなかったのだと感じます。
ライフスタイルの変化
転職前に暮らしていた島根県松江市は、島根県の中ではわりと栄えている都市でした。
車がなくても自転車や徒歩で日常生活を送るのに不便はありませんでした。対して、転職後に引っ越した鳥取県境港市は水木しげるロードなど観光に力を入れているものの基本的には松江市よりも田舎であり、車がないと移動するのも一苦労といった町でした。幸い、私は松江市にいるときに車を購入していたのでなんとか暮らしていけました。
悪いところばかりではなく、境港市はその名の通り港町で何と言っても魚が安くて美味しい!そして美味しい飲食店もあまり混んでいなくて並ばずに入れる!大型ショッピングセンターPlantがある!という感じで意外と車さえあれば住みよい町でした。
また立地的にも島根県松江市と鳥取県米子市のちょうど間ですので、どちらにも行きやすいのも魅力でした。
鳥取県米子市は鳥取大学医学部および附属病院がある市であり、西部医師会では定期的に医師や臨床検査技師が参加する鳥取県西部消化器超音波研究会が開催されていました。
せっかく丁度よい研究会があるのだからと、ちょこちょこ超音波検査の症例提示をするなどしておりました。ここでの症例提示の頑張りがのちにフリーランスになるときに良いめぐりあわせをもたらしてくれたと思っております。
やはり人間関係はどこでも苦労する~うつ病増悪~
※このストーリーは私視点でしかないことには注意してください。事実ベースではありますが、人間関係においては相手の視点もありますので、私視点では相手が悪く感じられ、相手の視点では私が悪く感じられるものだということに注意してください。
先述したグラム染色の件もですが、私はなかなか特定の上司とうまく意思疎通をとることができませんでした。私は入職したばかりでしたので、当時の生理検査部門の主任の方針に従って検査業務を行っておりました。
主任によると甲状腺エコーも検査室が引き受けているということだったので検査していたところ、技師長から呼び出され、なぜ検査しているのかと問い詰められる出来事もありました。
また、心エコーは当時は循環器の医師が管理していたものの、習うために生理検査から臨床検査技師も赴くという体制でした。ある日、土曜日に医師が心エコーを行いエコー機の電源を切らずにかえってしまったことがありました。その時の日直者から電源を切ってほしいということで呼び出され、病院まで赴いて電源を切りました。
そこでまた私が呼び出され、エコー機の管理はどうなっているのかと問い詰められるということがありました。当然、私は入職したばかりで私にはわからないが、本来、使用した循環器医師が電源を切るのではないかということを返答するのですが、そういったことはちゃんと把握するのが仕事じゃないかと問答になりました。
組織に属しているとこういったことはよくあることなのだろうと思います。
多くの方はこういったことに耐えながら組織に属して検査にあたっているのだろうなと思います。
しかし、私はうつ病が「仕事をしても良い程度までは寛解した」とはいっても「もう服薬や通院をしなくても大丈夫」となった状態ではありませんでした。
こういった自分にはどうしようもないこと、わからないことで責められることに、驚くほどに防御力が低下しておりました。
先述の数件の出来事のみならず、日常的にそういったことが積み重なった結果、うつ病の症状が増悪につながってしまったのだと思います。
これが2度目の休職につながります。
2度目の休職中の生活
2度目ともなると、休職する判断は前回より早くできました。主治医も症状が徐々に増悪している様子をみていたので診断も早かったように思います。
とはいえ、やはり休職がはじまってしばらくは何もできない日々が続きました。しばらくして増薬した薬の作用にも慣れたころに、ゆっくりとこれからのことを考えていました。
今まで表で語っている「フリーランスになった理由」はこの時に考えていたことの表の側面です。
その表の側面は「超音波検査の指導者不足」に対する懸念や「超音波検査をもっと地域医療に活かしたい」というものです。この想いは今でも変わっていませんし、たしかな想いです。
そして裏の側面はこの期間に自分自身と向き合って考えたうえでの気づきとなります。
「私は組織に所属することに向いていない」「上司の機嫌を伺ったり、理不尽を受け流して仕事できるほど、もう心は耐久力をもっていない」ということを強く感じました。
おそらく社会では上司とうまくいかない、理不尽なことも耐えて成長するということが多くあるのだと思います。私は最初の職場でその耐久力をすべて使い切ってしまっていたように思います。だからこそ2度目の職場では他の人が耐えられるようなことも耐えられない程、心は弱っているのだと感じました。
次にまた転職してもきっと同じようなことは起こるだろうな…と色々と考えたものです。
そこで、いつも親身になってくださる鳥取大学の超音波専門医でもある杉原医師と相談し、浮かび上がってきた道が「フリーランス」でした。
そんなわけで、次回は「フリーランスになった後のライフスタイルの変化」について語ろうと思います。
おまけ【アメリカへの初旅行】
杉原医師とは最初の職場の頃に知り合っていました。私が入職時健診で肝機能でひっかかってしまい、主治医としてお会いしたのですが、大学院時代の私の発表を聞いてくださったこともあるということで縁を感じていました。超音波検査士の資格取得のための受験の際に必要な専門医のサインも杉原医師にお願いしました。
転職後しばらくしてから、アメリカに留学中の杉原医師からアメリカに来てみないかとお誘いいただきました。ミネソタ州ロチェスターにあるメイヨークリニックの見学やアメリカでの生活を体験できる機会でしたのでとても嬉しいお誘いでした。
この時の体験は本当に人生にとって貴重な時間だったと思います。
その後も、何かある度に杉原医師に相談させてもらいながら人生を歩んでいます。
杉原医師との出会いがなければ、今の私はなかっただろうなと思っています。
(#05へつづく)


